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UPDATE:2017.8.25

業界著名人がアニメ作品をオススメ!

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アニメへの関心は「背景」から
――ここで話題を変えまして、この連載でみなさんに聞いていることですが、後藤さんがアニメーターになろうと思った原点などもうかがっていきたいです。
後藤
きっかけは何度も話していますが、劇場版の『銀河鉄道999』(79)ですね。高校生ではなく、社会人1年目になってました。秋田出身なんですけど新潟に出て、その新潟のテレビ局で『999』のイラストを募集していたので、メーテルの絵をハガキに描いて送ったら試写会の券をもらったんです。田舎の人間なので劇場でアニメを見たことがなくて、何も知らなかったんです。テレビ好きなんでアニメは見てましたが、スタッフとか職業的なものは、まるで意識してないし、知識も情報も何もなくて。
――それで『999』は、どうでしたか?
後藤
そんな状態で見たらものすごく面白くて、ふらっと本屋さんに行ったら、「アニメージュ」の表紙が安彦(良和)さんのアムロがランドセル背負った絵だったんです(1979年9月号)。セルじゃなく、絵の具のガッシュで描いたイラストというのがすごくて、「えっ、こんな絵を描く人がいるんだ」と、自分の中に印象としてガーンと入ってきたんです。そのアニメージュは『999』も特集してて、いろんな記事が載っている。それで初めて「こういう世界があるんだ」と知ったわけです。他の『999』のムックを見たら、セルと背景に分けて描いているのも理解できて、美術監督の椋尾(篁)さんの美術ボードが素晴らしかったので、「背景を描く仕事なら面白いかもしれない」って。
――アニメーターではなく?
後藤
アニメーターのアの字も考えてなかったです(笑)。このころ風景画描くのがすごく好きでしたから。バスケで有名な能代工業という工業高校出身でデザイン的なものもやったし、小中学校は美術の点が良かったんです。ただキャラクターは描いたことがなくて人物は下手だったので、「背景なら」と。それで会社を半年で辞め、田舎に帰って半年間ブラブラしてる間に、いろんなアニメ雑誌を買ったりセル塗りの通信教育をやったりして、「アニメの仕事をやろう」と心に決めて専門学校に入ったんです。
――どちらに進まれたのでしょうか。
後藤
国際アニメーション研究所というところですが、入ったら背景の授業がなかったんですよ(笑)。
――え? あ、なるほど。アニメーター中心で教えていたと。
後藤
同じクラスに中島敦子さん、東映(アニメ)で『プリキュア』などの作監をやってる上野ケンさん、漫画家になった洞沢由美子さんがいて、別の時間帯には土器手司さんもいたりして、みなさんものすごくうまいんですよ。僕だけ全然描けないし、授業もよくわからないんです。僕は三期でしたが、先生も実は一期の卒業生なんです。背景やろうかアニメーターやろうか、ずいぶん迷いましたね。みんなで卒制(卒業制作)みたいな作品を自主的につくることになったときも、背景描いてたぐらいですから。そのうちアニメーターで就職が決まりました。学校の謳い文句が「就職率100%」という感じでしたから、上手い人と下手な人とミックスして入れてくれたんでしょうね(笑)。とりあえず入ったからには25歳まで一生懸命アニメーターやって、ダメだったら田舎帰ろうかなと思って始めたんです。
――ちょっと意外な出発点ですね。
後藤
上手くないというのはよく分かってたんで、人と違うことをやらなくちゃいけない。だからとにかく動画を月1,000枚やろうと。
――すごい量です。
後藤
10時から4時ぐらいまで仕事をやると、東村山の会社から居候してた兄の北烏山の家までは帰れないんですよ。それで1週間分の着替え持ってきて、会社の応接間で寝泊まりしてました。1日30枚とか40枚とかノルマを決め、始めて3ヶ月目ぐらいに1,000枚行くようになったんです。当時、単価は安かったですけどね。それを1年続けていたら、会社の人も一生懸命がんばっているのを見ててくれて、それで2年目から原画をやるようになりました。
――だいぶ早いですよね。作品はどんなものだったのでしょうか。
後藤
まいっちんぐマチコ先生』(81)などですね。途中で同じ学校の友達がタマプロ(タマ・プロダクション)で東映の『ストップ!! ひばりくん!』(83)をやってて、それをやりたくてやりたくて仕方なくなりました。そのころ、つまり斉藤由貴の前は薬師丸ひろ子のファンでした。角川映画がすごく流行ってた時期ですよね。『ひばりくん』の高円寺さゆりっていうキャラが描きたくて描きたくて、その会社を辞めてタマプロに行くんです。それで東映の作品をやるようになり、『Gu-Guガンモ』(84)の最終回で初めて作監をやりました。テレビが終わってからそのまま劇場の「ガンモ」手伝ってくれと言われ、そのとき初めて井上俊之さんと出会うんです。
――なるほど。そこに人脈がつながるんですね。
後藤
そういう上手い人たちも、ほとんど同世代なんです。自分ももっと上手くなりたいとか活躍したいとか、作監もできたし自分を試したいと思ってた、23、4ぐらいの若い時期でした。そのうちその会社では流行の合作をやるようになって、やってみたら、これがとにかくつまんないんですよ(笑)。
――80年代の年表に出てこない合作アニメって、やはり歴史に大きく影響してますね(笑)。
後藤
日本の作品やりたくて結局辞めることになったとき、タツノコの作品も並行してやってたので、当時タツノコの石川から連絡が来たということなんです。もちろんそのころは、打ち合わせで顔を合わせるぐらいでした。でも、タマプロで作監やっているのは知ってたので、「だったらスタジオ入りなよ」って言ってくれて、そのままフリーでタツノコのスタジオに入ったわけです。そんな感じで、背景やるつもりだったのに、知らないうちにいろんな人とのめぐりあいが続いて、いまに至るという感じですね。
長く仕事を続け、後進を育成していくこと
――後藤さんとしては、アニメを志したころのような新鮮な気持ちで「こんな作品をやってみたい」みたいなものはあるのではないでしょうか。
後藤
サイコーユ鬼も『ジリオン』も、キャラクターつくってるとコスチュームを考える必要があるんです。それでファッションデザインもやってみたいとか、絵本を描いてみたいとか。そのころは夢も希望もあって、いろいろ考えてました。でも、会社つくっていろんな仕事をやっていく間に歳もとってきたので、いまはあまり「これやりたい」というのはないんです。求められる仕事を、いかに自分なりにできる限りを尽くして実現していくかってのに徹してきたんで、思考がもうそうなっちゃってるんですね。
 もちろん仕事は楽しみながらやってます。昔みたいに徹夜もできないし、いくらスケジュールが迫ってても暦通りちゃんと休みます。そのペースでいいと思ってるんです。57歳ですから次のことも考えようとしますが、好きなことをやればいいのか、会社経営のほうに回ったらいいのか、絵を描くことが好きなので「経営はないな」と思うんですが、自分が先頭に立つより、新しい力を持った後輩にどんどん出てきてほしいですね。とは言え、僕らが壁になってるわけでもないのに、なかなか若い人が大きく飛び出て育つということはないのが実情ですね。みんな真面目すぎるというか。そういう話はよくしてます。
――それって、世の中全体がそういう傾向になってるんですよね。
後藤
いまはほとんど総作監(総作画監督)作業がベースになってますが、「求められてるのはこれだ」っていう感覚はあるから、そこをいかに迷惑かからないようにやるかってことが重要なんです。それで作品がいいのができれば、自分としても嬉しい。そんなイメージです。
――もし後藤さんが「これをやりたい」と言えば、みんなついてくるんじゃないでしょうか。
後藤
いやあ、どうだろう。そういう気持ちが出てくれば、もちろんやってみたいとは思ってますけど。いまウチは「タテアニメ」をやっているので、そういうのでも、何かチャンスがあれば挑戦してみたいなと思いますね。
――あれって発想が面白いですよね。フレームって別にタテでもいい、みたいな。
後藤
ただ集中力がなくなり、確実に手は遅くなりましたね。何かやりたいと思っても、結局そこが一番ネックに来ます。もともとそんな上手い人間じゃないし、いまのアニメ業界をぱっと見ても、いったいどのくらいクオリティが上がっていくのかなって……。
――そこは深夜アニメ観ていると、いつまで続くのか、ちょっと不安になるときがありますよね。結局、コストに跳ね返るわけなので。
後藤
特にアイジーにいていろんな作品を見てると、「変わらなきゃいけないな」とも思うし、その中でどこまでやれるのかなって気持ちが、どうしても先に来ちゃいます。ただ、もしそういう若い感覚で欲をもってガンガンやりたいことがあるなら、アイジー出てるとも思うんです。アイジー出ないでいるってことは、居心地がいいのかもしれないし、向いてるのかもしれない。
 もちろん石川とずっとやってきたんで、ご恩返しじゃないけど何かお返ししたいっていう気持ちもあります。自分でパッと「背景やりたいな」と思いついたころから、いろいろ考えてみると、よくここまで来れたなって思います。こういう取材を受けるような人間でもなかったと思うし、たまたま運が良くてここまで来てるんですよね。それをいっしょにやってきた石川、そして石川とつくったこの会社にも恩があるし、アニメーターとして何か返していきたいなって思ってる部分があります。その気持ちが竹内孝次さんからいただいた、文化庁の育成のお話につながっているんですよね。
――いま、すごくその点で後藤さんの育成のお気持ちが拡がっていると思ってます。
後藤
「あにめたまご」もそうですし、その前には「アニメミライ」もありましたし(アイジーは初年度『たんすわらし』(11)と2年目の『わすれなぐも』(12)に作品参加している)。業界全体で人を育てていく、その部分だけでもご恩返ししたいと思っているんです。そんな中で『黒子のバスケ』もヒットして嬉しいので、アニメーターとして57歳でもできる限りの力を出していこうとも思ってます。それが現状かなと……。
――ご恩返しと育成というお気持ちは、自分も非常によくわかります。
後藤
みんな真面目だ真面目だって言ってくれますけど、自分としてはそれほど真面目でもないし、意外と「これやって」と言われる中で好きにやってきたタイプなんですよ。だから仕事自体は全然苦痛ではないし、いまも続けてるわけだから、好きなんだと思っています。
――長く続くことも、ひとつ大きな才能だと思いますよ。
後藤
そう言っていただけると嬉しいです。だって『攻殻』も『黒子』も、いつもそうなんですけど、「えっ、こんな絵描けませんよ」って思うとこから始まってるんですよ(笑)。でもこうやって長年続けてれば、できるもんなんだなって。もちろん模写力もつくし、いろんな演出の人と組んだことで、原作の良さや求められているものもわかるようにはなってきたので、なんとなく描けちゃうの。その分は、長くやってきて良かったなと。何が来ても驚かないですから。
――それは共同作業ベースのアニメーションで、ものすごく大事なことだと思います。長く続けられた才能の一部だと思いますよ。本日は、どうもありがとうございました。


PROFILE
後藤隆幸(ごとう・たかゆき)
1960年、秋田県生まれ。アニメーター、キャラクターデザイナー、株式会社プロダクション・アイジー取締役。1987年、『赤い光弾ジリオン』をきっかけに石川光久と「アイジータツノコ」設立に参加。以後、さまざまなテレビアニメ、OVAでキャラクターデザイン、作画監督、原画を手がける。代表作は、『僕の地球を守って Please Save My Earth』(89)、『ポポロクロイス物語』(98)、『攻殻機動隊 S.A.C.シリーズ』(02)、『精霊の守人』(07)など多数。近年では『黒子のバスケ』(12)、『宇宙戦艦ヤマト2199』(13)などのヒット作で、総作画監督などをつとめた。日本動画協会の文化庁委託事業「若手アニメーター等人材育成事業」(あにめたまご)では人材育成委員を担当し、若手原画講座を受け持つなど、後進の育成にも尽力している。


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