――後藤隆幸さんは日本動画協会の『あにめたまご』(文化庁若手アニメーター等育成事業)の講師をされています。Production I.G(以下「アイジー」と略)の取締役でもあり、アニメーターとしても著名です。そもそも「アイジー」という社名は石川光久社長の「I」と後藤隆幸さんの「G」のイニシャルから来ているわけですが、石川さんに比べて後藤さんは、あまりマスコミやネットに露出されていませんよね。
- 後藤
- そうですね。作品の場合だと、どうしても出なきゃいけないんですけど、単純にメインの仕事が少ないだけでしょう。昔はたしかにアニメーターがフィーチャーされた時代があったので、そのころは僕も露出が多かったはずです。ただ、最近は「作品は監督のもの」みたいなところがあって、そういう理由でも露出が少なくなったかもしれませんね。
――自分にとっては後藤さんと言えば、80年代中盤のアニメ雑誌でよく拝見したスターアニメーターなので……。
- 後藤
- 会社関係の経営的なものは石川がやってますし、会社が大きくなって人も増えてプロデューサーも大勢いるので、制作や経営面ではあまりタッチしなくても大丈夫になりました。僕は描き手なんで、あまり表に出て話す機会がないんですね。
――やはり役割分担ですよね。アイジーの成り立ちにも関わってくると思うので、その辺もお聞きしていいですか?
- 後藤
- はい、聞いてみてください。
――いま後藤さんが社内で受けもってるのは、どんな部分ですか?
- 後藤
- 普通に作画の仕事と僕としては、スタジオの人材育成みたいな部分に関してキチンとやりたいんです。黄瀬(和哉)くんも西尾(鉄也)くんも、クリエイターとしてキチッと中を育てていく意識でいます。
――様変わりは実感します。いま現在、作画に関してはどういう状態でしょうか。
- 後藤
- 話が前後しますが、国分寺からこっち(2010年に三鷹に移転)に移ってきてから、事務系とハイキューなど一部は隣の本社ビル、このビルは制作と社内で育てた作画の人たちが入っています。小さかったころはビルをいくつか借りて第1、第2みたいにスタジオを分けてましたが、いま作画はワンフロアを2部屋に分けています。
――CG部隊は?
- 後藤
- 入っていないです。ただ一昨年ぐらいからタブレット作画で育てる新人も若干いて、それに対応した『進撃! 巨人中学校』は向こうのビルで進めています。ただ、タブレットはまだ中堅クラスの原画で興味ある人から始めたばかりの状況ですから、デジタル作画に関しては育成もまだまだこれからですね。ウチの作品は手描きが多いですし、一方それだけだと抱えきれない部分と、新しく4K、8Kに対応できるフィルムをどうするか等もあり、シグナル・エムディ(持株会社IGポートの傘下で、神山健治監督『ひるね姫』を制作した)と言う新会社を設立しています。
――かなり戦略的に進められているイメージがあります。
- 後藤
- それは石川と制作陣がどんどん進めていることですね。僕は作画の仕事がメインなので「こういう作品が来た」という案件に「どう対応していこうか」となる形が多いので、どうしても話は後になります。
――そういう状況は、後藤さんから見てどんな感じですか。
- 後藤
- しょうがない。
――(笑)。
- 後藤
- もちろんその都度教えてもらうこともできますが、別に反対もしませんし、関わっても手を出せるわけでもないですから。自分にも進めていかなければならないことが多いので、むしろ「いろんなことを考えなくて済む」という感じでしょうね。最初のころは、アイジーも小さかったんで……。
――ちょうど『赤い光弾ジリオン』(87)から30年目ですよね。
- 後藤
- ええ。アイジーも今年の12月で創立30周年になります。『ジリオン』のテレビはまだ「竜の子制作分室」で、OVAの『赤い光弾ジリオン 歌姫夜曲』(88)のときに「有限会社アイジータツノコ」をつくったんです(1993年にプロダクション・アイジーに変更)。僕は鐘夢(チャイム=スタジオ鐘夢)という作画スタジオをやってて、テレビの『ジリオン』を終えた石川がいっしょにやってた京都アニメーションの八田(英明)さんの勧めもあって、『歌姫夜曲』をつくる場所として会社をつくることになったんです。同時に『機動警察パトレイバー』(88)の話も進んでいたと思いますし。
――アイジーはOVAのときからグロスで奇数話数を担当されてますよね(『
機動警察パトレイバー』初期OVA6話中、1,3,5話。元請けはスタジオディーン)。
- 後藤
- はい。それも見込んで、経営しやすいように有限会社でやっていこうと。僕も『ジリオン』のヒットで名前が知れたし、僕としては、プロデュースしてくれる人間が近くにいれば楽だなっていうのもあったし。あのとき、石川が思ってることと僕が思ってることが「win-win」みたいな関係だったのかなと思うんです。いまみたいな、こんなすごい会社をつくろうとか、石川も僕も考えてませんよ(笑)。僕は会社つくればいろんな形で印税も入ってくるだろうし、個人だと交渉しづらかったキャラクターの権利部分も交渉しやすくなるし、もし少しでもお金が入るようになれば、動画の人、原画の人に分配できるかも、という想いもありました。クリエーターの人達に少しでも多くの金額をわたせる会社をつくりたかったんです。
――なるほど。たしかに「会社対会社」にしたほうが有利なことは多いです。
- 後藤
- それで石川もクリエイターが活躍できる舞台をつくりたいという想いもあったんです。最初は劇場やビデオが多かったんですが、いいフィルムをつくれば他も認めてくれて、仕事も来るだろうと。ただし制作費以上のものにすると、会社はすぐ潰れてしまいますから、その辺が石川はうまかったんです。多少足の出た作品もあるにせよ、借金をつくることもなく、フィルムもある程度いい上がりで実績ができた。そのかわり「アイジーはすごいクオリティのものをつくる会社だ」というイメージもついてしまいましたが(笑)。
――タツノコ時代の石川さんの印象はどんな感じだったんですか。
- 後藤
- 僕の中ではいちプロデューサーですよね。僕はタマプロを辞めて『光の伝説』(86)からタツノコのスタジオに入ったんですが、タツノコの制作の人たちは遊びにも行くし、話してもいろんなことを知ってたりで、オープンな感じがあったんです。みんなすごくやりやすかった。石川は僕のことをけっこう認めてくれてましたし、アニメーターとプロデューサーという壁みたいなものをあまり感じなかったんです。仲がいいというのとは、ちょっと違うんですが。
――アテにされてる感じですか?
- 後藤
- そうですね。『ドテラマン』(86)のサイコーユ鬼も、たまたま僕が斉藤由貴が好きでファンクラブに入ってたり、スタジオでいつも朝ドラの再放送を昼に見てたり、好きだと知ってて「こういう話があるんだけど」と振るんですよ。
――当時のNHK連ドラだと『はね駒』でしょうか。
- 後藤
- そうそう。僕は作監(作画監督)よりも原画でバリバリやりたかった時期でしたが、あの話数で初めて「キャラもやるし作監もやる」みたいなにできたんです。他にも、なかむらたかしさんの作品が好きでいっしょにやりたいなと思ってたら、「たかしさんが作監やるから、ごっちゃん(後藤さんの愛称)原画描いてよ」という話数を持たせてくれたり。『ジリオン』にしても「キャラのコンペあるから描いてみない?」って言われたのがきっかけで、当時からいろいろチャンスくれてました。
――ご本人以上に「こういう方向かな」って面倒みてる感じがしますね。
- 後藤
- そうなんですよね。たぶん石川は、クリエイターが情熱を持っていれば、自分も情熱を持ってやれるというタイプだと思うんです。「コイツのためなら、こんだけしてやろう」みたいに。クリエイターのいい部分は、ものすごくよくわかってるし、作品をちゃんとつくるために、これを成功させるために、みたいな想いも、まだ若かったからあったでしょう。僕の場合は演出じゃないんで、「こういうのつくりたい」みたいにあまり語るほうじゃないんです。とりあえずスタジオに入って、朝10時前から仕事してる。で、誰もいない(笑)。
――アニメーターは夜型の方が多いですから、普通そうですよね(笑)。
- 後藤
- 事務系、制作の社員数人しかいないんです。僕はタマプロ時代からの習慣で、朝から入って1日原画5カットを毎日コンスタントに上げるペースを備えていたんで、その一生懸命やる仕事のスタイルを、石川が認めてくれたんだと思います。だからチャンスを与えたり、そういう仕事を持ってきてくれたりしたんでしょうね。
――会社を始められて、どうでしたか。
- 後藤
- 石川さんのやり方はクリエーターの作品作りを第一に考えていますが『パトレイバー』のときは、押井(守)さんに「ここまでやりたいんだろうけど、でも無理なのでここまでで」と言ってましたし、黄瀬くんにも「ここは作監入れないでいこう」みたいに、会社を潰さないようにしようとか、作品を落ちないようにするためにはとか、考え方をわきまえてる感じでした。
――ちゃんとアクセルとブレーキの両方ある感じがします。
- 後藤
- そうですね、片方だけだと偏ってしまうので。もう30年前なんでかなり曖昧だし、僕から「石川どうなの」って話したこともないんです。僕に負担をかけないようにとか、ここで自分がやることで後藤がやってるものは逆に口を出さないようにとか、任せちゃえば絶対上がってくるしとか、彼はそういうふうに考えるはずなんです。その辺はいまも昔も、親密に細かい話をしたということはないですね。
――信頼ありきなんですね。あまり話しすぎると、言葉に縛られるかもしれませんし。
- 後藤
- ケンカもしちゃうだろうし。もちろん株式にするよとか、会社の名前変えるよとか、こんな会社つくるよとか、節目の話はもちろん話してくれます。でも、細かい話はあまりしない。いまは大きくなったんで、もっとしなくなりました。
――アイジーの成り立ちに興味があるのは、1987年設立という点が大きいんです。たまたま「今から30年ぐらい前に新旧塗り変わる大転換点があったんじゃないか」みたいなことを考える機会が多くなってるんですね。大友克洋さんがアニメに参入してきたのと、『ゴールドライタン』でなかむらたかしさんの回の制作を石川さんが担当して規格外なものができたのは、関係あるわけです(大友克洋初監督作品『
迷宮物語 工事中止命令』(87)は、なかむらたかし作画監督で、これが『
AKIRA』(88)につながる)。アニメーターがどんどん監督になってくみたいな流行もこの時期で、ガイナックスが『
王立宇宙軍』を発表したのも1987年なんです。
- 後藤
- でも、アイジーは若干遅めですよね。たまたまだとは思うんです。『ジリオン』が決まったときはタツノコでやると思ってたのに、突然フリーもふくめてスタジオ全員集められたんですよ。「このスタジオは解散することになりました」って言われて、「ええっ!」って。そこで石川が「『ジリオン』はつくるよ!」って言ってくれて、それで国分寺に部屋を借りることになったんです。それで若手のフリーの中では当時僕が一番年上だったので、石川に「若手をまとめてスタジオつくっちゃえば」と言われ、『竜の子制作分室』の空いてるスペースを間借りさせてもらったのが鐘夢の始まりなんです。
――そこで『ジリオン』を作画されたんですか。
- 後藤
- いえ、『竜の子制作分室』は『ジリオン』をつくってますが、鐘夢は『きまぐれオレンジ☆ロード』(87)などいろんな作品をグロスで請けて作画したりして、各自に分けてました。『ジリオン』はタツノコ時代にグロスで請けるスタジオがいくつかあって、そこに仕事がなくならないようにと出したりしてましたから、かなりいろんなことを考えぬいて『ジリオン』をやるって決めたはずです。
――それで人の流れが変わってますから、やっぱり転換点だと思うんです。
- 後藤
- もし『ジリオン』がなければ石川は別のスタジオをつくってたかもしれないし、僕もフリーで好きな作品ばかりやってたかもしれません。ホントに「たまたま」でして、運命って分からないものだなとつくづく思いますね。『ジリオン』がヒットしたのもたまたまですし、キングレコードの担当の大月(俊倫)さんも当時若くてこれからという人なので、そういうお付き合いもできたし。押井さんにしても、『パトレイバー』でまた前にガーンと出るようになったし。いろんなものがうまく噛み合った時期だと思いますね。
――キングの大月さんも、上の方々が辞めて一人きりになった時期ですから、境遇が似てますね。
- 後藤
- 『ジリオン』のヒットでスターチャイルドも続くようになりましたし。もしかしたら『ジリオン』が時代の鍵みたいな感じだったのかもしれません。だから運というか、ホントに分からないもんだなと。
――それが90年代に入ると、「プロダクション・アイジーと言えばクオリティ」みたいなイメージがどんどん付いていくわけですが。
- 後藤
- 劇場作品がアイジーで回っていて、黄瀬くんが若い力を出していた時期ですね。そのころ僕は何をしてたかというと、会社で採用した新人は劇場はやらせてもらえないんです。なので他社のテレビシリーズをグロスで取ってました。いまWIT(ウィットスタジオ/アイジーのグループ会社で2012年設立)で活躍している浅野恭司くん(『進撃の巨人』(13)のキャラクターデザイン、総作画監督)もそうですが、彼らを新人のころ育ててたんですよね。