――元永監督の作品ジャンルは実に幅広いですが、子ども時代にはどんな映像を体験しましたか?
- 元永
- 福岡の筑豊地方、炭鉱があった近くの山中で育ちました。かなりの田舎なので娯楽といえばテレビぐらいでしたが、祖父が大のテレビ好きで、時代劇から刑事ドラマ、野球、アニメまで、放送されているものは片っ端からいっしょに横で観ていました。
――家族からは「テレビばかり観るな」など反対は?
- 元永
- まったくなかったです。父親と兄が漫画好きで、その影響もあります。いろんな漫画を買ってきては、兄弟で互いに読み合いっこして。大量の漫画が家に積まれていくので、友だちが漫画を読むために集まってくるという(笑)。
――テレビアニメはいかがでしたか?
- 元永
-
熱心に観ていたのは虫プロの『どろろ』(69)、東映動画(現:東映アニメーション)の『サイボーグ009』(68)で、どちらもまだモノクロでした。特撮も大好きで、『マグマ大使』(66)や『ウルトラマン』(66)も観ていて、特撮もアニメも分け隔てなく観てました。学校から帰って午後4時からドラマや時代劇の再放送があり、夕方5時ぐらいからはアニメ・特撮で、さらにがんばって夜9時の大人なドラマまで観る。それが当時の習慣でした。「いい加減に寝ろ!」と、最後は怒られましたけど(笑)。
――まるで英才教育的に、いろんな娯楽作品に触れていたわけですね。つくり手を意識されたのはいつごろですか?
- 元永
- 中学のころ、たまたまテレビで『ローマの休日』(53)を観て、ものすごい衝撃を受けたんです。映画であんなに感動したのは初めてで、「自分もこういうのをつくりたい」と思いました。同時期には親父が8ミリカメラを買ってきて、「撮り方分からないから、お前が撮れ!」と渡されてしまい(笑)。家族旅行に行くと僕がカメラマン役なので、まるで映っていないんですよ(笑)。
――子どもを撮るために買ったはずなのに(笑)。
- 元永
- でも、今考えるとレイアウトやフレームはそのころから意識していたことになります。それと特撮好きの兄が「俺も撮りたい」と言い出して。田舎で情報がなかったので「とりあえず爆発させよう」と、プラモに火をつけたり爆竹を使ったり、いろんなことを試しました。ともかく中学、高校時代は映画を撮ることに夢中で。
――撮った後は編集もされましたか?
- 元永
- いや、編集機材はあるものの、どうつなげたらいいかはまったく分からずで。「失敗したのは要らない」と切り飛ばす程度で、かなりいい加減でした。絵コンテを読んだりもしたはずですが、サッパリ意味が分からず、撮り方もデタラメでした。それだけに、うまく撮れたときの喜びは格別でしたね。山のテッペンで戦艦の模型を手が見えないよう回して撮影したら、ものすごくリアルに見えたりして、大喜びでした。
――その辺からものづくりの喜びを覚えられたとか?
- 元永
- 高校のころになると角川映画が好きになったので、ああいったハードボイルド系をやってみたいなと。でも弾着や血糊とかまったく分からないため、とりあえず爆竹を体に貼りつけて、大失敗でヤケドするみたいな調子で(笑)。
――角川映画には「映画が変わる」という感覚を抱かれましたか?
- 元永
- 特に衝撃的だったのは『野性の証明』(78)ですね。後半はオリジナル展開で原作とまったく違う。「これもアリなんだ!」と、映画館でものすごく興奮しました。映画を浴びるように観るようになりましたね。映画館はもちろん、テレビも深夜にちょっとエッチでグロいB級映画がたくさん放送されていて。ひとりでニヤニヤしながら観ていました。もはやタイトルは覚えていませんが、トンデモ映画ばかり好んで観ていた気も。
――今だと「映画秘宝」が取りあげるような?
- 元永
- そうそう(笑)。自分には「キネマ旬報」っぽい芸術的で格調高い映画は合わず。娯楽性の強い「観て楽しけりゃいいじゃん!」という映画ばっかり観てましたね。